ダンスマカブルを見た人の日記

※このブログはフィクション・パロディです。
※歴史とかの部分は整合性を確かめずわりと適当に書いているので適当に読んで

 

 

 

 

前から見たいと思っていた、ダンスマカブルというやつを見た。

 

 

 

 

 

個人的にいろいろと考えることや思うことがあったので、整理の意味も込めて備忘録を書き留めておこうと思う。
アイドルがこの話を演じてくれたことが、どれくらい自分にとって衝撃のあるものだったか、しっかり書き残しておこうと思う。

 

 

 

 

 

ダンスマカブル。フランス語で、死の舞踏。

 

「死の舞踏」といえば、15世紀ヨーロッパ美術で流行した終末観あるいは宗教批判のテーマとして馴染み深い。個人的には。

 

死の舞踏というテーマについて、私が知っていることは二つくらいだ。
一つ、ヨーロッパの歴史を代表する疫病、黒死病が流行った時代。
神にも縋れずなす術もなかった民衆が何かの拍子に突如踊り狂い始める。
狂乱は群衆をなし、多くの人がそのまま死ぬまで踊り続けたという逸話。

その時代、医師は神の思し召しで人々を救う職業だった。聖職者もまた神の意志によって民衆を救う存在であり、健康と幸福と信仰は近しいものであった。
病に倒れるのは信仰心が足りないからだ。という考えが当たり前にあった時代だった。

しかし黒死病が蔓延することでその神話は崩れる。
死を前にして人は皆平等だ。貴族も神官も平等に病に倒れた。

神に縋ることができないなら踊るしかねえなってことだったのかもしれない。
怖くないよ、死は踊るようなものだよ、メメント=モリじゃん。踊るように死を想おうよ、ということだったのかもしれない。
人々はその魅力的な狂乱を壁画やフレスコ画に残した。踊り狂う人々の中に、骸骨がいる。骸骨になってもなお踊る姿は、もう誰が生きていて誰が死んでいるのかわからない当時の状況を表現していたのかもしれない。

 

二つ目、黒死病の収束からしばらくして、ヨーロッパでは踊りながら生者をあの世へ誘う死者を描いた美術が流行した。それら共通するテーマを持った作品はまとめて「死の舞踏」と呼ばれる。
一つ目に挙げた狂乱のようなダンスではなく、骸骨たちはもっと自然に生ける者を踊りへと誘っていた。

描かれる生者の多くは、聖職者や身分の高い者だった。信心深かろうと偉かろうと、死は平等に訪れる。
教会の言うことを聞いていればよかった時代は終わった。信じていたものなどなにもなかった。人は皆、人だったのだ。

信仰さえあればよかった時代の終焉。
自分は世界史には詳しくないので、この時代のことをどう括るのが適切なのかわからないが、美術においてはまさに「ゴシック美術」時代であると言えるだろう。

死の舞踏は、宗教や宗教観に対する皮肉を込めた風刺画としての側面があった。

 

 

 

こんなものをテーマにアイドルがドラマをやるの?と思った。
まあ実際そこまでこの歴史背景に関係するような話じゃないんだろうな、と思っていた。
てっきり語感のよい「ダンスマカブル」というワードをタイトルに冠しているだけなんじゃないか。そう思っていた。

舐めてた。ダンスマカブル、あまりにしっかりとダンスマカブルしていた。
そしてこれを演じているのが16人のアイドルだということ、それが、面白すぎる。
このドラマを組んでくれたスタッフ、演じてくれたアイドルたちに最大級の感謝を感じながら今これを書いている。

 

 

 

 

ゴシック美術では、宗教画を描く時の暗黙のルールがあった。
聖人たちを「人間らしく」描いてはいけない。
少しでも人間らしさを感じるように描いてはいけない。聖人は私たち人間には到底理解できない存在であり「普通」に見えてはいけなかったのだ。
興味があれば一度『ゴシック美術』で検索してみてほしい。美しいステンドグラスと、驚くほど表情の固い、のっぺりとした絵画が出てくるだろう。

そんなゴシック美術の中で突如として「人間らしさという美しさ」を描く画家が現れるのだが…そこまで書き始めると主題から大きく外れてしまうのでここでは割愛する。

ちなみに、人間らしく描くことが解禁されてからの美術界の反動は凄まじく、ここで始まるのが大ルネサンス美術の時代である。
ヴィーナスの誕生アダムの創造……びっくりするほど肉体美。肉感的、美しいエロス。

現代でのルネサンス美術の人気からも分かる通り、人は人間らしい美しさに強くひかれるものだ。かく言う自分もルネサンス美術が大好きだ。

 

人間らしいということの美しさ。
均整のとれたシンメトリーなものではなく、有機的で意思を感じるものの美しさ。

 

 

 

地上に降りたアルムは、そんな美しさを目にしていたのかもしれない。

 

 

 

死と隣り合わせで生きるからこそ、「生きたい」という意思がある。
アルムはそれに触れたことがなかった。
誰しもに平等に訪れる死の舞踏さえ、彼の目には魅力的に映ったのかもしれない。

彼自身が、人間らしく描かれることを禁止された聖人そのものであり、のちに人間らしい美しさを手にいれるその人だというのが、なんとも複雑だ。

 

 

突然だが、あなたはある日突然「砂が主食だ」と言われて素直に「そうですか」と頷くことができるだろうか。
あるいは『ありがとう』という言葉は最上級の侮辱なので、金輪際言ってはいけない、と言われ、すぐに切り替えることができるだろうか。

がりがりと砂を噛む不快感や、感謝の念が湧いたときほぼ無意識に出る言葉を無視することは、とても難しい。

生まれた日から今日まで、骨の髄まで染みついた当たり前を覆すことは、苦痛とはまた違った苦しみがある。

生きてきたこれまで全てを否定されるような気持ち、あるいは、恥ずかしさ。
親を失うような悲しみ、胸のどこかにぽっかりと穴が空いたような喪失感。

人から強制される方がまだマシなのかもしれない。「お前はおかしいよ」と怒鳴られて気がつく方が諦めがつくのかもしれない。

 

「あ、これ、いらなかったんだ。」

 

自分で真実に辿り着くのが、一番苦しい。
そして、一番清々しい。

 

クヴァル、物語の中で神を失った軍人。
私は彼のことが、愛おしくて仕方がない。

 

信仰を失った彼が次に見つけた神が友情だということ。
そしてその友の一番には自分はなれないということ。
運命を共にすることさえ選べないということ。

なんてかわいそうで、いじらしいんだろう。

アルムが永劫の命を選択した世界で、クヴァルがアルムに看取られる瞬間に想いを馳せては、ダンスマカブルに出会えてよかったと思っている。

 

「……いずれ来る、君との別れを、悲しもう。
 ……友達だからこそだ。」

 

劇中で一番好きなセリフだった。

クヴァル役の十龍之介、こういう役もできるんだ。
普段ラブロマンスに出演している姿ばかり見ていたから知らなかった。
こんな倒錯的で人間的で、一途で優しい役ができるんだ。
エリート軍人の名に恥じぬ体躯、声量があって迫力のある発狂、
そして優しいシーンで魅せる、怖いほどに底抜けの優しい表情。
元来優しい顔の作りをしていると思っていたのに、なるほどよくよく見るとかなり男らしくて強い顔立ちをしている。
自分はアイドルというものを甘く見ていたかもしれない。

 

 

信心深く人間らしさのない信者から、現代的な人間らしさを手に入れたクヴァルと対をなすような登場人物がいた。

リーベル
物語が進むごと、まるで段々と天に昇っていくかのように、人ならざるもののようになっていった。

自由への意志、大義。序盤の彼の原動力は熱く人間らしいものだった。
突き動かされているというより、いっとう強い意志という印象を受けていた。

彼はアルムに魅入られた。アルムの人間離れした無垢さに魅入られ、
ナーヴではないが、アルムを対象とする信仰を手に入れた。

物語終盤、ただの人間になろうとするアルムに「人々の希望のために偶像になってくれ」とはっきり告げる。アルムをもう一度神にしようとする。
そしてリーベルは新しい神のためにその命を賭して戦う。
これを信心深いと言わずなんと言おうか。

アルムが永遠の命を選択するエンディングで、永劫の時を過ごしたアルムがリーベルに問いかける

 

「……後悔していないか?」

「してないよ、アルム。」

 

その問答のあと、リーベルはあろうことか「ふふふ……」と笑うのだ。
私にはそれがたまらなく神秘的に見えた。アルムの笑顔と自由が絶対で、それが彼の中での神に、光になったんだと感じた。

魅力的なキャラクター造形だ。自分は、感情移入していた主人公に最後に置いていかれるファンタジーが大好きだ。
実は有名な血統の持ち主だったり、何かの生まれ変わりだったり、力に目覚めたり。
少年漫画で育ってきたからか、主人公がそんな遠い存在になって幕引きを迎える物語の寂寥感が大好きだ。

 

アルム、奥深い登場人物だった。
彼のことをどう見るかで物語の結末に対する解釈が変わりそうだ。
自分の目には、どちらのエンディングもメリーバッドエンドに見えたハッピーエンド……
に見えて、アルムのことをよく考えるとやっぱりメリバだったんだと受け取った。

自由というものに憧れ、自由に対する責任にすら焦がれる。
自由という概念を知った次の瞬間に彼が出会ったものが「人のためにありたい」という願いだった。
お飾りじゃなく、本当の意味で人のためにありたい。
空っぽの胃の中に入る最初の自由だった。生まれたての彼にとって自由とは「できるだけ多くの人のため」という形をしていたんだと思う。

彼の最初の友人、リーベルは「お前のために戦う」という自由を持っていた。
「お前が新しい世界を作る」という思想を持っていた。くしくもアルムが初めて知った自由の形と一致してしまっていた。
彼の中で完全に他の選択肢が排除された瞬間だった。
「お前のために戦う」というリーベルの自由が、アルムを不自由にしていく。
「君のために負けない」という新たな呪いにかかっていく。
そしてアルムは、友人の喪失、または永遠の苦しみと対峙することになるのだ。

亥清悠、生意気なキャラクターのタレントというイメージだったのに、目を見張るほどの芝居を見せてくれた。
一見呪いのように見えるこのリーベルとの関係を、「自分が心の底から望むものだ」と表情で見せてくれた。
世間知らずに見えて、お茶目で、気が強く、しっかりと神秘をまとった少年を演じていた。
何も知らないアルムが、何もかもを知ってそれでも自分で選んだことを尊び「私の世界だ」と微笑む表情に、幸せのようなものを感じる演技だった。ハッピーエンドかはわからない。

 

 

死の舞踏。

“リズムに合わせて身体を動かすこと”に快感が伴うよう、私たち人間の体はプログラムされているみたいだ。夜な夜なクラブに通う若者も、アーティストのライブに足繁く通う私もみな、リズムを感じて気分がよくなって帰路に着く。
踊る快感と酸素の足りない脳みそは人を半狂乱状態にしてくれるらしい。

踊りとはよく、祭事に使われる。
朦朧とする意識と快感の中で、普通ではないその状態の中で、人は人智を超えた何かを見出してきたのかもしれない。
ラクラでクタクタの状態に反して勝手に体が動くことに、あるいは混乱の中に見える幻覚に、人は神秘的な何かを感じてきたのかもしれない。

ダンスマカブルの中でのダンスは、やはり戦いだったのだろうか。終わらない命懸けのダンスの中で、それぞれが自分だけの神秘を見出して、自分の意思で選択していく。

 

 

リーベル、名前が好きだ。

ローマ神話においての生産と豊穣の神。禁忌からの解放者とされる。
liberty の語源をとなるラテン語liber。その名は「自由なもの」という意味だ。
別名をバッカス。こちらはブドウと酒の神とされている。
酒は人を熱狂させる。フーガもその影響を受けた一人だったのかもしれない。

リーベル、一番人間らしく見えて、一番神様っぽくて、一番残酷なヒーローだった。
リーベル役の八乙女楽、「八乙女楽っぽい役」ばかりするアイドルだと思っていた。
華のある見た目で画作りには最適なタレントだが、そこまで芝居として力のある人物ではないと思っていた。
圧巻だった。普段から八乙女楽自身が一本木な性格なんだろうと勘づいてしまうほどのまっすぐな眼差しと、突飛なことを言っているのに本人には全く悪気がない、危なげな雰囲気。浮世離れした見た目が相まって怖さすらあった。

八乙女楽、きっとリーベルのような男なのだろう。
自分のファンから狂信を向けられる彼だからこそ、群衆の希望であることに違和感がなく、希望の星もまた何かに魅入られることがある、ということに説得力があるのかもしれない。
八乙女楽というアイドルがこの役を演じていることの、深みが計り知れない。

そんな話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

っていう、アイナナ世界のオタクのブログありそうだよねという話。

 

 

 

 

普通の感想じゃなくてまじでごめん、普通の感想も今書いてるから許して。
ダンマカがあまりにあまりに面白すぎて、つい勢いで書いてしまった。たのしかったです。